「本当にそうかなあ〜?」 -探究の芽生え-

何かモヤモヤしているとか、何かイライラしている という状態の時ありませんか?普段の暮らしのなかでは、そんな自分の内面に起きていることは、些細な事に思ったり、自分のなかにしまったりと、いつのまにか、自分で処理してしまっていることも多いですね。でも、ホントは、自分を振り返ってみる時間を持ちたいとか、誰かに聴いてほしい気持ちがあったり。もっと、ホントは、自分自身が、自分のことをもっとわかりたいなあと思っているのかもしれません。

9月のマイライフセミナーのレポート、紹介します。

 

数々のテーマを通して得られた気づきを整理してみる。
 ■自分の認識と実際
「相手の言動から思い込んでいる相手」と、その先にある「実際の相手」は、異なることに気づいた。
同様に「自分が思っている自分」と「実際の自分」とは異なる。
さらに、社会についても、「自分が認識している社会」と「実際の社会」は異なる。
もっと言うなら、自分が認識しているものを言語化してしまうと、さらに細かく切り取ってしまうことになり、実際との差はより一層でてくる。
それを元に判断して、怒ったり、悲しんだり・・・実に恐ろしことをしていた・・・。あらゆるものは、主観で認識しており、実際とは異なる。
 ■自分と他との境界
力をテーマに探究した中で、自分一人で生きているようで、周りにあるあらゆるものには、何らかの他人の力によって自分が活かされていることを認識した。
自分の力の部分があるのかどうかもよくわからなかった。
自分の力と他人の力の境目がとても曖昧な感じがした。
モノについても、自分のモノと他人のモノとの境界は自分の認識の中にしか存在しないと思った。
これも、自分のモノと他人のモノの境界が曖昧・・・。
もしかしたら、自分と他人の境界も自分の中にしか存在しないのか?
親しさとは、その境界を取り除いていくことかもしれないなぁ
 ■実際は
終わってみて、「そうか分かった」という状態にいたったときの喜びの後にでてくる「本当にそうかな」という違和感。
まだ小さいが、これはサイエンズ思考が自分の中に少しだけ芽生えてきたのかもしれない。
あらゆるものは、知識や経験をもとにて固定化できるものではなく、固定化して(キメつけて)しまうと実際が見えにくくなる。
この手法でこれからの世界を経験していくことが楽しみになってきた。
(30代 男性)

「感じ方、捉え方、考え方は人それぞれ。違って当たり前」だと、頭では分かっているはずなのに、意見の違いや行動にイライラしてしまう。
結論を出そうとする人に反発しようとする心理。
現代社会を生きる上で染み付いてしまった、私達の習性、自己防衛反応ともいえるかもしれません。
自分の感情でさえ、なぜ沸き起こるのか分からない。
この「分からない」や、「当たり前」というキメつけ、固定概念、思い込みのせいで、日常、どれだけ不自由でもどかしい思いをし、「人とは分かり合えないものだ」と人間関係をあきらめてしまっているのでしょうか。
セミナーでのワークや話し合いを通じて、物事の捉え方はどこまでも主観的であり、どんなものでも自分のフィルターを通さずにはいられないということを実感しました。(略)
今回、“サイエンズ”という探究の仕方を知り、体験し、これから積極的に使っていきたいと思いました。
(20代 男性)

参加前は他の人と話をしていて意見が食い違った時に、つい自分の意見を正当化しようという事を無意識にしていたという事に気づかされました。(略)
そこに気づくことで、過去の親との関係性や自分の満たされなかった思いなどが浮かんできて、自分の怒りの原因が少し観えたような気がします。
そして、不思議な事にその原因が観えただけで他人と意見が異なる時に感情的になっていない自分がいる事にびっくりしました。
探究する事は人間らしく生きることに繋がるという言葉を聞いた時も、「あぁ、こう言う形で自分を探究し、観ていく事が平和な社会を作っていくことに繋がるのか」と本当に目からウロコでした。
 
平和な社会を作っていきたい、子供たちに争いの無い社会をつなげていきたいと思い、アズワンを知る前は子供の可能性を伸ばす学校作りをやろうと意気込みながらも、足元の夫婦間のコミュニケーションがきちんと取れず苦しんでいて、どうやったら本当に親しい、安心できる夫婦関係が作れるんだろうと模索していましたが、それがこのマイライフセミナーに参加する事で探していたものの解決の糸口が少し観えてきた感じがします。
(40代 男性)

Posted by : school-office | マイライフセミナー | 12:24 | comments(0) | -
自由なお互いで、話し合えるようになるには、・・・ 

相手のことを理解しながら話し合いたいと思っていても、ままならないこともありますね。
そんな時、どこを考え、見ていけばいいのでしょうね?
「自分を知るためのコース」に参加した人のレポートが参考になるかもしれません。

自分を知るためのコース 9/5〜12
 初日、「自分のことを観察しよう」というのが最初に提示された大きなテーマ。
「考えないで、観察するんだよ」と言われても、考えることと観察することの区別がつかない自分がいた。
頭の中の近況は?と、問われると、「いつもいろんなことを考えているなあ。何となくせわしげだなあ。」と、自分の状態が出てくる。具体像が見えてこなかった。「何をしにここに来たのか?」と問われれば、目的や意図に意識が向いている。ただシンプルに自分の行動に意識がいかないのは、なぜだろう?と思っていた。この日出された「自分の感覚は正しい!と思っていないか」という問いにも「思っているよ!それが自分の自信につながっているから今までやってこれたし・・・」とかいう答えがすぐに頭の中に浮かんできた。

二日目は、「自分の感覚は正しいと思っていないか」について調べていった。
カップの特徴やペンの色のワークをしていく中で、知覚したものをずいぶんと自分なりのとらえ方で認識していることに気づいていった。
目の前にあるペンと私の頭の中でとらえたペンは、同じ物ではない〜ということに気づいていくプロセスは、今まで体験したことのない経験だった。
時間は守るもの、お金は払うもの、と決めつけている私の感覚〜実はとてもあやふやで不確かなものである、ということを自覚すること。―→ 前日に浮かんできた「私の感覚は正しい」という思いは、私の中から消えていた。

三日目は、「自分の感覚だという自覚があるのだろうか」について調べていった。
スプーンや玉葱のワークをしながら、自分の感覚イコール事実ではない、ということを自分の中におとしていく作業。
3.11の震災の例など感情と結びつくと、「事実でなく記憶」とすっと思えないのはなぜだろう?
事実は自分の中にはない ― 頭で理解しようとすると無理がある。
そのことも出し合いながら調べていくと、だんだんと事実と感覚・記憶が切りはなされてくる。
何だか今までの世界観が反転した感覚 ― この地点に立てたことは、新しいスタート地点に立ったような感じがする。

四日目、ちょっとした場面でも、自分の反応を観察している自分がいた。
言葉が通じないJさんとも、自分がどんな感覚でとらえていたかを出し合うのがとても楽しかった。
 INPUT → ??? → OUTPUT
 ???の中にはりついている自分の観念や思いぐせ、もののとらえ方など様々なループをこれから少しずつでも調べていきたい。
知ると知っているの違い〜知っている!と決めつけることで、目の前にある実際に対する見方をどれだけ狭めてきたことだろう!
皆で調べて「ああ、そうかあ!」と納得して食べてみたおかしの味は、とっても新鮮だった!忘れない!

五日目、実際はどうかに関心がいかないのは、何故だろう?私が信じていたのは、私の感覚や記憶。それを確かなもの、ゆるぎないものとするのは、実はとても不確かなこと。ここでもまた、世界観が反転する感じ。

自分の中でおこっていることを自覚していけるようになると、少し冷静になり「実際はどうなんだろう?」と対象や自分を見つめなおすことができるようになる。決めつけることがなくなる。

六日目、ブラジルの3人とも、とても親しみを感じるようになった。
感情を素直に出せるIさんやJさん、P君もとっても素敵!
事実と自分の感覚はちがう、という自覚が芽生えてくると、○○だ!と決めつけない考え方になり、なぜ私はこう思うのか?
この感情はどこからくるのか? 相手の言動をなぜこんな風にとらえるのか? など実際を調べていきたくなる。
決めつけない状態は、やさしくて、安心していて、自由な感じ。

自分を知るということは、自分の感覚でしか捉えてこなかった今までの自分を、決めつけることなく、新たに探究していくこと。囚われのない、自由な私、自由なあなたに成り合っていくこと。もっともっと本質に近づいていくプロセス。これからがとっても楽しみ。
 日常にもどって、自分の中におこっていることをどれくらい観ていけるかはわからないけど、出てくる感情も含めて調べていけたらいいなと思っている。
仲間とも、もっと近くなっていきたい!
(50代女性)

Posted by : school-office | - | 08:37 | comments(0) | -
身近な人と、心通じ合っていますか?

「人を聴くためのコース」
「人の話を聴く」というのではなく、「人を聴く」とは、どういうことでしょう?
こんな会話、身に覚えありませんか?
「え〜!そんなの聞いてない!」「え〜!言ったよ!通じない人ね!」
<通じない>というのは、言葉が通じないという意味ではないですね。
心のうちでは、心通じ合いたいという欲求がありませんか?
ホントは、自分を理解してほしいという気持ちがありませんか?
私は、身近な人、大切な人と、通じ合ってるかなあと、あらためて思いました。

8/30〜開催した「人を聴くためのコース」に参加した方の感想です。

「人を聴くためのコース」に参加して
このコース、3度目の参加ですが、前回と今回の間がかなりあいているので感覚的には、初めての参加という感じでした。

奥さんとの事や職場での事など、具体的な自分の実例も軽く出せて、自分の実態も浮き彫りになり、楽しく笑いの中で検討が出来たという感じです。

「言葉というものがどういうものなのか」
「聴くというのは何を聴こうとしているのか」
「聴くが実現しないのは何故なのか」
「聴くが実現したら、人は、社会は、どうなるのか」
一つ一つがとても濃い内容で、若い人達に刺激されながら、じっくりと究明し合っていった。

孫とのやりとりの例や、母と子の例など、子供とのやりとりの例で検らべる事が多かったのも考えやすかった。
子供が相手だと、「自分が問われている」という事が素直に思えるが、相手が大人だと、すぐに見解を言ったり、丸ごと受けないうちに返したりしている。相手が大人であろうと、子供であろうと聴くというのはどこまでいっても聴く側の問題。そこがすっと腹に落ちる。

人には、計り知れない、それぞれの世界がある。
それぞれの心の世界は軽重などなく、すべて対等。
計り知れない心の世界を否定したり、認められなかったりとか出来ようがない事。
まずは、「そうなんだ」と受けとめるだけ。
「そうかー」とただ抱きしめるだけ。
「人」というものが、とても愛おしく思える。
それが今一番の実感です。
もっともっと、いろんな事をやって、検らべて感じたりしたと思うが、言葉にするとこんなところです。
(60代男性)

Posted by : school-office | サイエンズ | 12:37 | comments(0) | -
「心って何だ?」 学ぶ日々から

「マイライフセミナー」以外に、毎月「自分を知るた めのコース」「内観コース」「人生を知るためのコース」などのコースを開催し ています。
どのコースも、「自分を知り、自分らしく生きる」 ための探究であり、自分を知ることを通して「人間の本質」への探究にも繋がっ ていくことにもなります。
先に進むだけでなく、すごろくのように、以前に参加したコースに戻って、もう 一度見直してみたりできます。
サイエンズ留学というサイエンズを学ぶために、アズワンコミュニティに滞在し ながら、サイエンズスクールに参加するという学びの機会が、今年になって始ま りました。日々の暮らしをしながら、サイエンズを学び、人生や社会のあり方を 探っていく体験です。
ある留学生は、5月以来いくつかのコースに参加してきました。
彼女の8月「人生を知るためのコース」に参加した時の感想レポートを紹介します。

「人生を知るためのコース」感想

今の段階では「心って何だ?」「結局人間性って何のことを指すんだ?」などモヤモヤしているのですが、何となく見えそうで見えない、けれど何かある、という糸口的なものを見つけたような心地です。

キーワードは、「実際の自分」。
これもまだモヤモヤの中。
でも、自分の現れている部分である言動を「自分」だと思っていた。
また逆に人の言動を見て「その人」だと思っていた!!!
それ以外に「その人」がどこにいるんですか?!(怒)と言いたい位、ガッチリ「その人」になっていました。
今もそうなっている感覚がなくなった訳ではないけれど、言動はその人から出たものであって、その人自身ではないんだろうな、という気がしています。
みんなの心(?!)の奥底のようなところに、何だかぽやぽやして柔らかそうで温かな「その人のもと」があるのかな、と想像しています。
(略)
とても興味深かったのは「すべては1つ」。
ツクシみたいに、土から出てる所は別々だけど、土の下では繋がっているというイメージでしょうか。しかも「なずなの根っこは地獄まで続いている」という農家泣かせの野草です(笑)。
原子レベルまでいくと、確かに皆1つです。
川のように身体は形をとどめているけれど、常に何かが入れ替わっています。
そうやって見てみると、とても面白い。元は同じものなのに姿を変え、また存在する場所が違うと名前が変わる。しかも、それは常に動き続け入れ替わっている。これでやっぱり3日位検討してみたいです。

自分がしている日々のことに、今まで本当に無頓着だったんだなぁ、と思います。
何も考えず、言われたこと与えられたことをこなしてきました。自分の声も身体の声もろくに聞かずにきたなとしみじみ感じています。今の若者が「言われたことしかしない」と良く聞きますが、思考停止するような教育、先が見えないような状態では無理もないと思います。安心して、今までの経験を上手く使って「自分」を表現していく。そして、自分も相手も満たされる。そんな社会になったらいいな、と楽しい想像をしています。
まずは、自分を満たすことからしていきたいです。
(40代女性)

Posted by : school-office | サイエンズ | 12:35 | comments(0) | -
そのものに、初めて出会えた。

8月「自分を知るためのコース」が開催されました。
「自分を知るコース」ではなく、「自分を知るためのコース」です。
<知るため>には、何か準備しておくことがありそうです。
そもそも、<知る>とはどういうことでしょうか?


例えば「自分のことは自分が一番よく知っている」と思っていることがあります。
さて、本当にそうでしょうか?
知っているといっているのは、何を言っているのでしょう?
立ち止まって、自分の内面を観察してみると、新たな発見がありそうです。 



自分を知るためのコース 6日間を振り返って
(30代女性)
この6日間の最後に「私の取り残したキュウリ」を題材に見てみました。
キュウリを見た時の記憶をたどると、収穫をしている私の頭の中には、「見本のキュウリ」の大きさがあって、見本のキュウリと比較しながらそこにあるキュウリを捉えている状態で、大きいキュウリだ、これは1日でここまで大きくはならない、調度良い大きさから2,3日はすぎてる、2,3日は見のがしてる、見のがしちゃいけないのに、この大きさは出荷できない、おいしくない、迷惑かけちゃいけない、私の仕事なのに。
これを一つ一つ見ていくと、私の頭の中にあるものだと気づけていく。そして、頭の中にあるものは、外の世界にはないとなっていきました。
でも、どうしても、これは頭の中にあると思っても、そっちに気をとられて事実・実際に向かえない感じで、どうしたらいいのかが分かりませんでした。
これは一人では難しいと思い、Aさんに話してみました。
Aさんは、「頭の中にあるよね、それはそのままあるけど、意識をキュウリに向けてそこにあるキュウリを見てみて」「そしたら、何が見えてくる?」と私と一緒に見てくれて、そうすると段々、キュウリだということじゃなく、そこにただただ存在するものが見えてきました。初めてそのものに出会えた感覚、やっと出会えた感覚でした。
私の頭の中のものを、そのものとしていた時、それはとても価値のないものになっていました。そして、事実・実際に向き合おうと一人でしている時、私の中の知識や経験の記憶を無くそうとしている思考になってたことに気づきました。スタッフのOさんが何度も「頭の中にあるよね、無くならないよね」と言われているのを聞いていたのに、いつのまにか無くさないといけないと思ってそれをやっていました。
私が頭の中でしていることを自覚していくと、それをしつづけたいか、やめたいか、選択ができるようになる。私はそのものに向かいたいと意志がはたらく。やっとそのものに向かっていくことができる。
誰かと話をしていても、私は頭の中のことで忙しくて、その人に気持ちが向かない。それを私はしつづけたくないし、その人に出会いたい。そして、私自身にも出会いたい、今そう感じています。
 

 

Posted by : school-office | サイエンズ | 18:15 | comments(0) | -
探究の始まりは・・・

猛暑の中、8月11日〜16日マイライフセミナーが開催されました。

日が経過するに従い、お互いに、各自の内面をありのままに受けとめていけるようになり、何を言っても楽しく、嬉しく、時には涙するようなこともありました。

サイエンズを理解する入り口のセミナーですが、一人ひとりに安心があってこそ、探究が始まるのだろうなと実感しました。



参加者の感想をいくつか紹介します。

「マイライフセミナーを受けて」
 6日間の長いようで、あっという間の時間が過ぎた。
ひとつの課題にじっくりゆっくり向き合う・・・・。
こんなにひとつのことに時間をかけたことのない私の心の中は、“まだ次にいかないのかなあ〜”という日頃の時間枠でした。
でも、いろんな人のいろんな話しを聞くうちに、このゆっくりとした時間がとても大切だと思い、心地良い安心感にかわっていきました。
  (略) 
じっくり「自分に聴く、調べる」をやっていくと、なんとたくさんの“キメつけ”を私はもっているのだろう・・・。キメつけばかりだなあ・・・。
そして、そのキメつけのほとんど(全部)が、ゼロから考えると、とてもおかしく変なもので、笑っちゃうくらい。
こんな、実際はどうかわかりもしない“キメつけ”で自分を縛って苦しんでいるなんて・・・。

 いつも私の中では、結論づけないと気がすまない、結論づけなければいけない、前へ進めない、納得できない・・・という考えがあるみたいで、結論づけない、決めないで前へ(次へ)進むっていうことが、こんなに安心して心の中の気持ちを出しあえる場になるなんて思ってもみなかった。
“何でも出しあえる場って、こういう雰囲気なんだな”と、深いところで感じるものがありました。
(30代女性)



「マイライフセミナーに参加して」 
    (略) 
「腹が立つとは」、「人生とは」、「社会とは」、そう改めて聞かれると、自分の中で色々「そういうものだ」、とか「こうに違いない」と決めつけていたことがいっぱいあったなあ。
「あの人があれをしたからだ、許せない」の裏には、自分の中の大事な気持ちを大事にしたいことや寂しい気持ちがあることに気づいたり、「大人としてはこうしなければ」の裏には、勝手な「大人像」を作り上げていたりしてたな。
一枚一枚、薄皮をはいでいくように、知らないうちについてる心の癖に気づいたり、はずしていく作業なのかなーって思いました。

 「社会の目」が、「こうしたら怒られるかも」という責められるような目じゃなくって、やさしく見守ってくれる目だったら、そんな優しいまなざしだったら、自分の中に持ちたいな。
そこで、でてくる気持ちや考え方は素直な自分の気持ちという感じがするもの。
安心できる場所にいたら、自然と素直な気持ちや、やりたいことが出てくるんだろうな。

 (30代女性)

「マイライフセミナー感想」
長いような短いような6日でしたが、振り返るといろんなことが心の表面と奥底で、同時に、でも別々に(ところどころ)起こっていたような気がします。
  (略)
最初は心や身体の無意識のつかれをいやすというのは、こういうことかなあと思いながら、でも、自分でも自分がこの先どうなるかわからず、最低限のことだけ、やりたいと思えることだけやっていた感じでした。

それが、4日目になってから、日中はほぼ眠らなくなって、自分の中から自然にことばや笑いや人と目を合わそうという気持ちが出てきて、自分のことながら、人間てすごいなあ、実はとってもシンプルなんだなあ、と感じていました。

周りも私の回復に対してとても自然で、たいへんそうだったら見守りつつ放っておいてくれ、元気になってきたら何を引きずるわけでもなくふつうに交流が起こるだけで、そのことを経験できたこともすごく印象的でした。
(30代女性)

 「感想」
何でも話し合える関係とは、“人を聴く”ということが、大事なように思える。今年の4月に初めて鈴鹿に来たときに、この“人を聴く”という言葉に何かを感じて、その言葉を持ち帰り、人に話しをするときには相手の心(気持ち)を聴くことによって、話し合えると思っていたが、その前に“自分自身を聴く”こと、自分はどんな人間か“自分を知る”ということが大事であると感じ、今回のセミナーに参加したいと思った。

今までこんなに時間を取って自分を見つめることはなく、今回のセミナーで一番学んだことは、SCIENZの“Z”ゼロに戻って“実際はどうだろう”と考えたとき、自分が今までいかに経験や知識で物事を判断していたことに衝撃を受けた。

今まで“自分は変えない”“自分は変わらない”で生きてきたが、心をニュートラルにし、“実際はどうだろう”と考えたとき新しい発見ができ、また新鮮な気持ちになった。

人は誰でも、親しい間柄でいたいと心から願っていると思う。わたしの永遠のテーマは“幸”である。今までわたしは目の前の人を一番に幸せにすることを“頭”で考え過ごしてきた。しかし、まず“自分自身が幸せに成らずして人を幸せに出来るのか”と思い、“心“の中で、自分が感じたとことを実践してみようと思っている。そういった人たちが増えていって、みんなが心で感じことを実践していけば、”やさしい社会”の実現も遠くないと確信している。
(40代男性)

 

Posted by : school-office | - | 11:37 | comments(0) | -
私の社会観をはずしてみて見ると・・・
7月後半、「社会を知るためのコース」を開催しました。
「社会」という言葉を聞くと、自分の外にある、よそよそしいものというイメージが出てくる人が多いのではないでしょうか。
本来の人間はどんなものか、人間性に適した社会はどんなものかと一つひとつ検討していくと、かつてなかった社会が現状の中に現れてくる・・・


「社会を知るためのコース」に参加して
このコースで、人間を知ろうとすることを通して、人間らしく生きること、人間らしく生きられる社会が見えてきたことがうれしい。
自分と社会が直結したように感じました。
 (略)
自分としては、あまり権利・義務意識で日常を暮らしているとは思っていなかったが、日常の何気なくやっている行為行動は、このような人間観・社会観でやっていることが、テーマで具体的に検べてみと、はっきり見えました。

コミュニティハウスをやっていて、家の中の掃除をやりたくてやっていると思っているが、来訪者があると、その時までに掃除をしなければならないと思っていたわけでもないが、結果的にはそれを自分に課していたこと、私たちが留守の時に、家を使ってもらうときに、こうして欲しいと伝えるが、その中には、その人がせねばならないように強いる気持ちがあったこと。
家の家具や食器などを、別の所で使うために貸し出したときも、いつまでに必ず戻してといいながら、その人に強いる気持ちがあったこと。
言ったとおりにしないと、次は貸さないと責める気持ちがでてきたこと。
責めるということでは、自分の孫が災害で亡くなったということであれば、やむをえないとなるが、理不尽な死に方をすると、自分の中に許せない気持ちが出てくるのか、死ということには変わりはないが、自分の中はどうなのかを見ておきたい。
ビジターズハウスの洗濯物を、持ってきたからやる、それをやるのも一役やることになるからとか、自分の中のものでなく、外のものでやっていたなと思う。

そうなっているからやる。
きまり、ルールだから、約束だからと意識もしないであたりまえのようにやっているが、これは現行社会の観念で、外のものでやっていることであって、ということは、やっていることが、他をやらせたりやめさせたり、強いることにもつながり、自分の意にそわないことがあれば責めたりするのも当然のようにしていることにつながると見えて来きました。
社会に対しても、それをするのが仕事だから、それをしないのはおかしい、やってもらえないのは困る、など、強く出たりする場合は、その自由を認めようとしないことで、やることを強制しているようなものです。
相手の意志に働きかけて、自分の思うようにやってもらうことも、外のものをもってきて、強いているようなものです。
規則やルール、約束を守らない人を責めるのは、相手の内面を無視して、その人より自分が上で、それで当然だというところでやっていることです。
ものの貸し借りや、頼み事の中にも、その結果如何で責める気持ちが出てくるのも、いまの社会観から生じていると思いました。
社会の中での行動・活動が、権利・義務の関係で行われている場合が多く、一方が他方を強制したり、束縛することを当然とし、それから逃れるために、脱法行為をしたり、嘘、偽り、瞞着が増し、争い事が絶えることがなく、そのための法律や規則が増え、ますます心の面の解決が遠ざかっていくと思っていました。

そうなっているからやる、こうすべきだ、こうやらなければならない、というのは現行の社会の中の観念から出ており、私の中からのものではない、外のもので、元々は私の中になかったということは、しなければならないものは何もない、自分も、社会も何もしなくてよい、と見えてきました。
何もしなくてよいというところから、自分も人も社会もスッキリ見えてきました。
自分の中にこうして欲しいというもの、こうあったらいいなというものがある時は(出てきた時は)、それをそのまま出せばよいでしょう。
権利・義務、こうするもの、こうあるべきもの、こうしなければならないもの、してはいけないものが、自分の中からなくなると、強制や束縛がなく無理なところがなく、すべてが自由で、そういう社会はだれもが自由に生きられ、幸せになれると見えてきました。
自分の中から出てくる、こうして欲しい、こうなったらいいなという欲求は、社会にそのまま(外のものがまじると、強いるものになりやすい)、出したらよいだけ。
何もしてもしなくてもよい自由な社会は、出された要求を受けとめ、実現できるかどうかはわからないが、その実現にむけて応援し、一緒に考えても行ける。
強制や反発も生じようがなく、要求が満たされ、心が満たされる。
ひとりひとりの要求が社会で満たされ、そうなると要求が次々と出され、人も社会も活性化して行くでしょう。
要求が満たされるから不平不満もなく、人と人の心が通い合い、他を思いやる気風が醸成され、親愛の情に満ちる人情社会となっていく。
だれもがしたいことができ、やれることが増え、活気に溢れ、遠慮、気がね、強制、束縛がなく、自由でそのままの自分を思う存分発揮し、自分らしく、幸せに生きられる社会が見えてきました。

現状そのままで、幸福社会への「知的革命」です。
これからも、外のものでなく、中のものだけでやっていきたい。
観方や考え方にとらわれずに、実際はどうかとなと検べながら。
共に生きる人たちとその人の表われたものの背景、その内面を大事にして、やっていきます。
(70代 男性)
Posted by : school-office | - | 10:11 | comments(0) | -
モトのこころ 心底は・・・

7月「人生を知るためのコース」

「人生って何?」とか問われたら、一瞬戸惑ってしまう人が多いのではないでしょうか?
「あなたのこれまでの人生の歩みを聞かせて」と言われたら、とつとつと、まとまらなくても、何とか表現できるかもしれませんね。
「人生とはどういうものでしょう?」と問われたら、どうでしょうか?
自分の人生を題材にして、人生そのものを掘り下げていく探究が始まります。


7月参加者の感想文の抜粋です。
ーー略
今回、その時々の事柄に対して、自分が捉えたものだという自覚が起こると、その捉えたものが、自分のものの観方に影響を受けており、メガネをかけている自覚がさらに芽生え、ようやくそれについての問いが立ち、考えられる
ようになるということを経験した。
そうすると、本来は・・・と注意が向いてくる。


まだ、十分に観察し、調べていないけど、さまざまな「観」は、わたしが、わたしに対してメガネをかけている「自分観」が元になって派生しているようにも思われ、これについては、大事なテーマでもあるので、よくよく観てみたいと思っている。

「○△観」は、自分の内面の現象、言動、行為にも大きく影響しているようだけど、それが、「=自分」ではないという感覚も面白いなと思う。
では、「自分」はどこにいるのか? 

さらに、モトの、というか、本体、というか、自分と言っている実在するものについて、意識を向けていった。

モトのこころ「本心 心底」について注意を向け、感受していくのは、自分のイノチは何を願い、自分のこころは何を求めているのかを知ろうとしていくことでもあるように思えた。
雲の中を歩くようではっきりとしたことがなかなか観えてこないのだが、そこへ向かおうとしていること自体がとても有意義で豊かな時間だった。
日々、日常的なイトナミにおいても、自分の関心が、そのイノチの願いやこころの求めからなのか、アタマの、意識の、満足のためなのかを見極めていきたいと思う。


アタマの中で、意識で(というのか)、事実だ、真実だ、として思い込むという「脳の落とし穴」に気づいていくことが、脳の本来のハタラキについて納得し、使い方を知っていくことに繋がっていくのではないかと思う。

それにしても、このような社会を動かしている観念とか通念をつくり出しているものが、自分たちの脳であることに深い関心を抱く人が増えたらどうなるだろう?
人間の「脳」というものの機能について、きっといろいろと研究されていると思うけど、なぜこんなことになってしまうのかに疑問を持ち、真相を知りたいと思う人が増えていったら・・・。
自分の「脳」は、本来、どんなハタラキをするものなのかを知りたいという人は、たくさん出てくるように思う。
案外、早々に、あちらこちらで、実験的実践が可能になり、試みが立ち上がり始めるのではないかと思えるのだった。


モトのこころ「本心 心底」は、現象でとらえられないのだけど、安心とか充足の感じを受ける。
こころは、それを具体的に現実化しようとして、何かを求めていくように思う。
そして、わたしの内にうごめく向上したい気持ちは、方向性を得て、そこへ向かっていきたいのだ。終わりなく。


人が、本来の姿で、モトのこころが開いてアタマ(脳)のハタラキを活用していくための条件についても考えた。
そのための物理的な環境と人的な環境、構造的な環境があるのだと思う。
このことについては、また考える機会も、考察したことをまとめる機会もあるだろうと
思うので、そのときに取り組みたいと思っている。

ーー略

(40代)

Posted by : school-office | - | 10:13 | comments(0) | -
なぜその人の世界に関心がいかないか?
ふだん、人と、どんな関わりをしてますか?
人と話して、お互いに分かり合って暮らしていますか?
人と話すって、そもそも、何をしているのだろう?と振り返ってみると・・・・

人を聴くためのコース
「人の話を聴く」のではなく、「人を聴く」のです。
その人そのも
のを理解しよ うとする営みのことです。

7月の「人を聴くためのコース」に参加した方の感想です。

検討を進める中で、言葉を聞いて自分の中に立ち上がった自分の言葉、経験、記憶、その人に対する印象等が立ち上がってくる。それらを総合して、相手が「こう言った。」として来た。
自分の事(自分の捉え)とその人の事(その人の実際)とが、混線状態にある、と見えて来た。

しかし、さらに検討してゆく中で、その人の世界として築き上げてたものが、すべて自分の捉え、自分のその人に対する印象だった、という事が見えて来た。
つまり、すべて自分の世界一色ジャン、という事に気づいた。
自分の世界一色、すなわち、相手の存在のない世界。他者が受け入れられない、と思っていたが、自分の中に、その人の存在がないのだから、その人の世界に関心が行かないのは、当然の事だ。

言葉とは、物事を抽象化して、概念(分類)にしたものに「音」を貼り付けたもの。
その言葉の実際は、それを発しているその人の中(心)にある。それを聞いた時の(自分の)言葉は、自分の世界の言葉。言葉にとらわれる、とは、自分の世界一色の中で、生きている、という事。相手の存在はない。

他の人の例から
孫から電話「バーバ、あした来てね。」
私「・・・ウン、なあに」
その子の心に、私の心がダイレクトに向かう。
心通う。
聞いていて、何か、ジンとくる。

ミヒャエル・エンデの「モモ」の一節(モモが人の話を聴けるという)を聞いてなぜか、ジワット、涙が出て来た。
「何かを言う、というわけでもなく、大きな瞳で、ただ見つめているだけで、その人は・・・」

その時、自分の中に起きたものを、言葉にすると、
「自分を解き放ちたい」
「自分のままで生きたい」
と、いった衝動のようなものが、湧き上がってきた感じがした。

「人を聴く」が実現する事で、どんな世界が現れて来るのか。
人には、聴いてほしい。
見てほしい。
受けとめてほしい。
等の欲求があるように思う。

聴いてもらって、心底満たされて、初めて、他者の世界が見えて来て、関心が向かうのかも。
望んでいるのは、自分を解き放ち、その人と心通わせる。心通い合う世界。
そこに現れるのは、今だかつて見た事のない世界。 (60代男性)
Posted by : school-office | - | 17:23 | comments(0) | -
いつも愛情の中にいた
毎月一回「内観コース」を開催しています。
自分のことは自分で知っているとしていることが多いでしょう。
しかし、静かに調べてみると、自分が思っている「自分」が、実際の「自分」とはずいぶん異っていることが見えてきたりします。

内観コースは、「自分を知るため」の一つ方法として、続けられてきています。
7月の参加者の感想、抜粋して紹介します。

初めての内観。
どんなことが出てくるかな。
じっくりみてみたい気持ちと、振り返ると苦しい気持ちになることも多いんじゃないかという思いがあった。
1週間の間に父、母、ともに2回ずつ、母については3回目の途中(中学3年)までを観てみることができた。
1回目はやっぱり思い出そうとすると苦しくなる場面や時期があったけど、だんだん、してもらったこと、心配や迷惑かけたことばかりが出てきて、自分が苦しかったような気持ちに焦点があたらなくなっていくようだった。

★母に対する自分。
私は小さい頃からすごく甘えん坊で母にべったりだったから、少し振り返れば、母には甘えていたなぁとも思うけど、私のイメージでは、小さい頃から母はいつも忙しい。姉が病気をしてからはお姉ちゃんのことばっかり。
父とよく喧嘩をしていつもかわいそうな目にあっていた。
私はいつも寂しくで悲しかった。
ざっくりとこんな感じになっていたと思う。
内観を進めていくと、寂しく感じている自分、悲しくなっている自分の場面もあるにはあるけれど、母が側にいて甘えさせてくれていた場面、あたたかい感覚をたくさんたくさん思い出した。
もう忘れてしまっていたこと、やってもらって当然になっていたこと。
私になにかあったときも何でもない日常の中でも、私はいつもいつも愛情の中にいた。
そんな感覚になっていった。
私は保育園、幼稚園、小学校、、とあまり学校になじまないタイプだった。
中学生になると本格的に行かなくなり、それから10代の間はだいぶ苦しい時期だった。
カウンセリングに行ったり、家から全く出られなくなったり。
その間もいつも母が側にいてくれた。
私が動き出そうとする時はそれに付き合ってくれて、じっとしているときは、見守ってくれていた。
あのとき母は一体どんな気持ちだったのだろう?
そんな場面がいっぱい思い出された。
(略)
★父に対する自分。
父についてを思い出すのには抵抗感があった。
怖かった父のイメージが強くあったし、今も父とはなるべくなら会いたくないなぁという自分がいるので、してもらったことや愛情をもらっていたことを思い出してしまうと、今の自分の感情にとって都合が悪いような感覚があった。
内観を進めていくと、父にも甘やかされ過ぎるくらい甘やかされていたこと、父は父の愛情表現で、いつも愛情をかけてくれていたことが感じられた。
父については、父はひどいことをしたひと。というのが強くなっているから、してもらっていることが全く見えなくなっていて、なかったことになっている
記憶がたくさん出てきた。
父に怒られている時の記憶も、そのときの自分のショックや嫌な気持ちはあるけど、その前後の記憶が無い。
あのとき父はどんな状況でどんな思いだったのかな。
そんな気持ちにもなった。

私が、あのときはこうされてこんな気持ちだった。
こうしてくれなくてこんな気持ちだった。、と強くしてきた記憶がある。
でもそれ以外のことがたくさんたくさんあった。
私が「そうだった」と大事に持ち続けていたものも、その時の私の見え方、感じ方、その後に変化させたストーリーもあるかもしれない。
父に対しても母に対しても家族の記憶も世界が広がったかんじがする。
私が生きてきた時間、家族やそれ以外のいろんな人の中で生きてきた時間は、どこか一部の印象を切り取ってこれはこうだったなんて言えないことだった。

いつもいつも私は愛情の中にいたという感覚。
これはわたしにとってすごく大きなことだった。
思い出していく中で、家族やこれまで関わってくれたたくさんの人がでてきた。
私はいつもその愛情の中にいて、そうでない時はなかったんだ。
(略)
内観終わって数日。じわじわと内観よかったなぁという感じになっています。
(20代)
 
Posted by : school-office | - | 10:05 | comments(0) | -
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