探究心を培う サイエンズセミナー
/19〜21で、サイエンズセミナー開催しました。
ここで、出会った人たちで、寝食をともにしながら、「どういうことだろう?」「なぜだろう?」「ほんとうはどうなんだろう?」と、自分の頭を使っての、探究する5泊6日間。
参加された方の感想の一部を紹介します。
 
日常に埋もれていた感覚を呼び覚まされることとなった。
怒り・自分とはなにか・自由とは・所有とは…
もうすでに解っている、と思っていた。
錆付き、薄れ、頭だけの事柄になってしまっていたことに気付かされた。
(60代男性)
 
コースの前半、「私は見た。」「彼はそう言った。」など、解釈とか判断などが、あまりないと思っていましたが、そのものに対して思いをくっ付け、事実にいくつも観念をくっつけている、という事に気づき、ゼロポイントから見るのは不可能で、いつも古い先入観が着いているのに気づきました。(略)
一連のテーマはどれも興味深いものがありました。
歩きやすい道筋を、一歩一歩、軽く楽しく造り出していくようで、最後に具体的にこの結果を見ると、この過程を生きている人達を見て、インスピレーションが湧いてきて自分には何が出来るのだろうと考え始めました。
テーマに対してもそうですか、参加者達との交流・合宿生活も、軽く感じました。決めつけない、決定しないというのは、何か具体的でなく、一見不安定なようですが、人は常に変わって行くという事を実際とする方が安定していると思いました。
(40代女性)
 
何度か、何について考えたら良いか、わからなかった時がありましたが、そういう時もゆったりと他の人の話を聞くことができ、とても楽しかったです。時折、「これは説明しすぎだな〜」とか、「それについてはもう考えたことがあるな〜」とか思う場面があり、これではインサイトはこないな〜とか思う時も、最後にはいつも新しい気づきがありました。特に力むこともなく、探究が行われました。
テーマ一つ一つに対して出てくる気持ちをはっきり観察することができ、その気持ちは自分の中から出てくるということを洞察することができました。テーマと「格闘」したのではなく、ただ「探究」したのでした。
例えば、私の「嫌いなもの」は、ただの「もの」であり、「私のカバン」は、ただの「カバン」である等、実際を「そのまま」見ることでき、それは開放的でした。
自分の「嫌いな気持ち」、「私のものと思う気持ち」等、感知して行くということが、強く印象に残りました。自分の中にあるものをもっと自覚して行く、もっと自分をケアしていく、より自分自身を尊重する、やさしく。。
他人事で無い、やさしいシンプルな社会。蓄積と契約(これは私の物、保証された物)に安心を求めるのではなく、安心を人との関係の親密さに構築して行く(本当の安心)。
サイエンズについては、「真の人間とは」を探究し、真の人間として生きていく。
これからは本当に大事なものを大事にしていきたいです。
(20代女性)
Posted by : school-office | - | 23:55 | comments(0) | -
分かったりすることはできない自分を知ることから始まる。
幼い子どもを見ていると、見る・触れる・聞く・舐めるなど、身の回りの物、人に飽きずに向かっていきますね。「これはなんだろう?」と、知ろうという、知性が働いているように見えます。
知性は、人の意欲や認識する能力のベースとなっているのではないでしょうか?
人には、心があって、この知性もあわせ持っていると思います。

人間らしく生きるには、この知性がポイントになるように思うのです。


自分を知るためのコース(2015/12月)感想レポート
 
コースを通してひたすら意識するようになったのが、「自分の頭の中の概念や想像、記憶、感覚、想い」と「事実・実際」の違い。
すべては自分の頭の中に事実・実際があると思い込んでいることからおかしなことになってしまったんだなぁと思う。
 
”目の前にある美しい花”も”困っている人”も、自分がそう思っているものとは次元の異なる実際がある…。
まずは五感で感じてINPUTした時点でただ在る存在が美しい花になったり、困った人になったり、様々な解釈を頭の中でし捉え、それに判断を加え、ときにはOUTPUTとして、悩んだり、怒ったり、しなければいけないことをキメたり、よく頭を使ってきたなぁ…。
 
これまで、頭のなかに事実と思い込んでいる知識や経験を詰め込んで、行き着いたのが、世界を知っている、その人を知っている、自分を知っているという思い込み。
また、分かっている、分かるはずだという思い込み。
おそらく次元の異なる事実・実際を頭で知ったり、分かったりできるはずもないであろうことにも気づかなかった。
 
そしてもう一つ。数学的思考法のAだからB。
なんとも分かりやすいことだが、実際の世界ではどうやらそんな単純になっていないようだ。
BのためにはAだけでなく、世界の実際のあらゆるものが関係してBとなっている。
例えば、自分が電気を点けている。自分が稼いでいる。自分が生きている…。
自分で何でもできる、していると思っていたが、自分ができる・していることは世界のほんの一部なのに。ある意味傲慢な考えであったと思う…。
 
自分で自分を縛っていることも目からウロコ。
朝何時に起きるか、仕事に何時に行くか、何をするか、しなければいけないか…。
やりたいことがあって決めたことでもいつの間にか、自分の心よりも頭で決めたことを守るために実際を合わせていく。
こんなことを当たり前のように自分に、人に強いていたなぁと。
 
最後に、自分を知るためのコースを終わってみての総括として…。
思うに、(実際の)世界を(自分の頭で)知ったり分かったりすることはできないが、知ろうとしたり近づいたりすることはできるということ。
思うに、(実際の)人の心を(自分の頭で)知ったり分かったりすることはできないが、知ろうとしたり近づいたりすることはできるということ。
思うに、(実際の)自分を(自分の頭で)知ったり分かったりすることはできないが、知ろうとしたり近づいたりすることはできるということ。
 
そしてそれらに対して、分からないからこそ知りたいという関心がでてきたということだと思う。
これまでへんてこなことしてきたな…。
そしてこれから面白いことになりそう…。
はたして実際はどうだろう…。これから、試みはじめてみよう。
(30代 男性)
Posted by : school-office | - | 18:33 | comments(0) | -
「知る」〜人として生きる営み〜

朝起きて、お母さんだったら、家族の朝ごはんやお弁当をつくり、子どもを学校に送り出す。それから、仕事に行ってと、日々の暮らしの営みが、人生でしょうか?
どんな生き方がしたい?どんなライフスタイルを望んでいる?のかと、自分でもいろいろ情報を得て、探したりしますが、「自分は、本当は、なんのために生まれてきたのだろう?」「本当は、なにがしたくて生きているのだろう?」と、ホントウに、知りたいことは、もっと、なにか、あるように思うのです。
「人生を知るためのコース」(2015年11月)に参加した感想レポートを紹介します。




おもしろかった〜

人、生きるって、どうなっているか、

探るさぐる〜
ずっとやりたかった!ひとりではできんかった。
ゆっくり座って、じっくり1週間も!
こうやって、今も、生きてる、この実際が、何かを。

探ったったで〜!
やった〜!

生きてる実態(実際)、体の実態(実際)、心の実態(実際)。
みんなで、あーかな?こーかな?

生きてる実際ってものすごい。
地球、宇宙規模から体の原子レベルのことまで、
つながってく、つながってく・・・
生きてる実態。

見えない。あるのはわかってたけど・・・。
地球から人、人のなか、体のなかみ、心のなかみ。
みんなの体験や感じたことを出しながら、ふむふむ・・・

わたしは、心のなかみがおもしろかった。
あれ?心って、そもそも安心してるやん、幼かった自分、安心してすべて委せきっていた自分。
それがいろいろ経験から予想したり、やらにゃならんって、安心が見えなくなったりする。
安心は、そもそも、心に備わってるやんって、実感した。

うわぁ、力抜けるわぁ、 ほわぁ〜
こんなん、なんも要らへんやん。

こやって書きながらまた嬉しくなる。

心の作用、満足、満たす満々な状態、満々にしたい作用。
自分ひとりでは満々にはならない。
自分は他から全て、もらってる。
そうやなぁ〜。ほんまそれあるなぁ〜。

心がある。体がある。人が生きるとか・・・
そやけど?なにか?みたいに正体不明やったし、

実際は?とか思っても、はて?みたいに焦点をどこにやったらいいかわからなかったけど、
あてるところを見つけた感じがする。

私のあたまに新たな風がはいって、知るってすごいと実感した。

今、ほんま、そやなぁと思うことも、生活の中で、また、心の作用を実感したり、
また、そやなぁって、実際を見ながら噛みしめたりしたいなぁ。

検討会中
何度もじわじわ涙が、出そうになった。
自分の心の作用、元気でいよういようと、してたんやなぁ。
子どもたちも、けなげやわ。
わたしって、暖かいんや。
みんな暖かいんや、うれしいよぉ〜

自分は今も意識のほうでいろいろあるけど、
実際のほう、あるから安心して、
ゆっくりぼちぼち生きますから、
実際の心、実際のほう焦点あてながら・・・

あ!意識の中のいろんな話、あふれるほど、あるけど、そうゆうのより
実際のこと探っていくほうが、幸せへの近道かもしれないなぁと、今、思った。

ぼちぼち、生きまっせ〜、やりまっせ〜。

あ〜ちょっと自分の頭ン中、整えれた感。
レポート嫌いやったけど、
書きだすとおもしろいなぁ
(30代女性)

Posted by : school-office | - | 18:25 | comments(0) | -
この一年を振り返ってみると・・・

サイエンズスクールの入門コースであり、サイエンズの入門の、
<マイライフセミナー>を、今年は、7回開催しました。
今までは、4〜5回ほどだったので、参加希望の人が増えてきています。
<マイライフセミナー>では、自分の生き方・人生、人や社会との関わり方をゼロから見直し、人間として生きるベースを探究します。
遠慮や気兼ねのないお互いを醸成しながら、素直な、ありのままの自分を見出していきます。
いろいろな問題を抱えている人も、問題としている自分がどんな自分かを、まず観察し、「どういうことかな?」「どうなっているのだろう?」「なぜだろう?」と、調べていくと、当たり前としているものに気付き、回答を得るのとはまた違う、根本から探究していく楽しさを経験するきっかけになるようです。
2015年5月マイライフセミナー
(5月のマイライフセミナーより)

また、マイライフセミナーに参加した後、続けて、本来のものをもっと知りたくなり、「自分を知るためのコース」「自分を見るためのコース」「内観コース」「人生を知るためのコース」「人を聴くためのコース」「社会を知るためのコース」と、続けて参加する人もあります。
そして、2年間、アズワンコミュニティに滞在しながら、サイエンズを学びたいという人や、50日間の滞在の間に、5つのコースに続けて参加した人もいます。
コース参加中の、研修所の暮らしのなかでの、自分を観察するモードや、もっと知りたいという探究モードが、コースの後、今までの日常に戻ると、眼の前のやることに、あっという間に流さてしまいがちです。
自分一人だけで、やろうとするのはなかなか大変ですが、人としてともに育ち合っていこうとする人たちのなかで、暮らしや仕事を通して、自分を観察しながら、話し合いをベースにした暮らしを体験することで、自らの学びも深まっていくようです。

(ミーティングにて)

春に、<サイエンズスクールとは?>ということで、事務局と研修所の生活に携わる5人と、研究所からも加わってもらい5日間、集中して研究会をもちました。
「人としての成長をサポートする、サイエンズスクール」 
何をしようとしているのか。コースを開催して何のためにしようとしているのか。
コースを開催することが目的ではなく、成長することが、終わりではなく、何をしようとしているのか。
日頃、思っていることや考えていることを、お互い聞きながら、見えてきたもの・・・。
今、この社会のなかで、スクールの社会的役割として、この部分をうけもって、やってみようとする。
一人ひとりがその人らしく、持ち味が発揮される社会。
コースの開催は、そのための準備ということではないか、と。

(ミーティングにて)

一人ひとりが、その人らしく成長し、それに応じて自分の持ち味が見出されて、みんなのなかで、その持ち味が発揮される。
これは、すべての人が願っていることではないでしょうか。
そして、その実現には、順序があると思います。
目の前にはいろいろな問題や、問題解決のための活動などがたくさんあると思いますが、サイエンズスクールでは、そういう問題をなんとかしようという出発でなく、それに関わる自分を知るところから始めたいと思っています。
このサイエンズスクールが、多くの願う人に使ってもらえることを楽しみにして、新しい年を迎えたいです。
office_life
(スクール事務局メンバーと、研修所生活スタッフ)

Posted by : school-office | - | 12:41 | comments(0) | -
何に関心が、向いている?

赤ちゃんも子どもも、自分の感覚や気持ち、意志を持っているでしょう。どんなふうに感じ、なにを思っているのでしょうか?
1、2歳の歩き始めた、子どもの行為に、お母さんは、「お願い、ママの言うことを聞いて」という、焦ったり、困ったりの、気持ちになること、ありますか?いつのまにか、どうやったら、こちらの思うようにできるかと、言葉をかけることもありますね。
それは、いったい、なにをやろうとしているのでしょう?

11月人を聴くためのコースに参加した、20代のお母さんの感想レポートです。

人を聴くためのコースに参加して

人を聴く…
人を… 聴く…
人の話をきくでもなく、言葉をきくでもなく、人を聴く。
聴くことを知らなかった事を知れて面白かった。
何か勘違いをしていたことに気がつけた!?というかんじ。
言葉とはどういうものか、何故聴くが実現しないのか、をいろんな角度でしらべていくと、相手に向いていると思っていた関心は全部自分だけに向けられていた事が見えてきて可笑しかった。
相手はそう思ってるからそう言っている。
聞くとやる方向に頭が働く。
聞くとすぐに自分の見解を言おうとする。
"そう言った"が"言われた"になる。
そうやって人に反応してたんだな。
ちょうど2年前"人生を知るためのコース"に参加したあと、どんな家庭にしたいかと考えたとき、いつも家にいる人として、家族が安心して帰ってきたくなるような家庭にしたいと思っていた事をふと思い出した。
どうだっただろう…?
いつも満たされた気持ちであってほしいなと思っているのに、関心を向けているはずの夫も息子もいない、自分だけの世界を広げていたんだなぁと思った。
例えば子どもに対して、やってほしくないことをどうやって理解してもらうか、どうやって相手の気を自分のやりたいようにもっていくか、という方にばかり頭が働いて、いかに落ち着いて自分の気持ちを伝えるかを考えていた。
そう、伝える事(言う事)ばっかり考えてたんだなぁ。
自分の中に出てくるものも確かにあるけど、それとは全く関係なく相手にも心やそれまでの過程がある。
ただシンプルに、私の世界があって、相手にも相手の世界があるんだなぁ、と思うと自然と相手に気持ちが向いていく感覚がした。

『まずは自分から…』本当にそうだな。
どんな環境にいても常に安定して聴ける人になれたらいいなと思う。

コースから帰って、道端でおばあちゃんと一緒にいる息子を見た時、胸がきゅーんとした。
しばらくの間全く会わないで過ごすのは、息子が生まれて以来初めてのことで、新鮮な気持ちで見えたのか、愛しいような自分でも、何なのかよくわからない気持ちが込み上げてきた。
当人の方は泣くでもなく、はしゃぐでもなく、ただ、抱きついたまま暫く離れない。
自分の中にあるいろんなものが「ありがとう」という言葉になって出ていた。
スクールのコースに参加する度に、自分がこうしてゆっくり考えらる環境に居られる事がありがたいなぁっと思うけど、サイエンズに触れた
暮らしの中で皆と一緒に子育てができる事を思うと、今回はまた一段と強く嬉しい気持ちになった。
二人目の子が産まれる前に参加できて、本当に良かったと思う。
(20代 女性)
Posted by : school-office | - | 18:31 | comments(0) | -
元々の心は、・・・ 人を知り合いながら、愛し合い〜

自分の心を知っていますか?
自分の心も、相手の心も、心そのものを、直接見たり、触れたりは、できないので、言葉や行動から、想像するしかありませんね。
人の言動を見て、「あの人は、良い心の持ち主だ。」とか、「なんて、心の悪い人だ。」 とか、言う場合がありますが、心に、良い心、悪い心 というのがあるのでしょうか?
もし、悪い心というのが、あるとしたら、元々の心に、なにかがくっついているのかもしれないとしたら、どうでしょう?あるいは、何かの理由で、心を見失って、間違った行動になったとか・・・。

人の心、もともとの心が、人には、誰にでも、あるのではないかと思うのです。
10月に開催した「人生を知るためのコース」に参加した20代の女性の感想を紹介します。


コースの最後の夜に、電話を借りて、父にかけました。
父は静かに「そうか、そうか。」という感じで聞いてくれて、父からも自分の子どもに対する想いも聞くことができました。
「頭と心を離して見てみる」というクセを付けて、人と話しをしてみたいと思います。
コースの内容として振り返ってみると、「本心、心底」という所は、まだまだ理解できていないのですが、子どもの頃に受けてきた外部からの刺激というものは、これほどまでに今の自分を苦しめているのかが、印象強いです。だけど、周りの環境がそうであれば、友達もそうなっているのが、当たり前だ・・・と思い込んでいたので、それが元々の心に、こびりついているものだと気付きもしませんでした。
「〜しないといけない」という強い考えは、心にくっついたものだから、汚れのように、洗えるのではないか、そして元々のきれいな心が、出てくるのではないか・・・そんな気がします。(わからないけど・・・)
元々の心が出てくると、すごく楽に人と話ができて、自分の感情に悩まされる事もなくなり、元々の「人間は何をする生きものか」というテーマで、「コミュニケーションをとりながら、知恵を出し合い、人を知り合いながら、愛し合い、互いに共存していく」が出てきた。
これが全てだとは思わないけれども、現在でも戦争が行われている中で、この言葉が、少しでも世界の多くの人に知ってもらい、意味を理解してもらえたら、互いを責めるとか、いがみ合うとか、人の存在を否定するような心にはならないのではないかと思いました。
私もこれから、自分の意志は持ちながら、人を尊重して、楽しく幸せに暮らしていきたいです。
まだ、見えていない部分もあるので、また機会があれば、必ず参加したいです!(20代女性)

Posted by : school-office | - | 19:09 | comments(0) | -
見て聞いて、何が起きているのだろう?

日々、何かを見て、思い、何かを聞いて、思い、といろいろな気持ちや考えが浮かび、「ああしよう」、「こうしよう」と、何か判断して暮らしています。その判断のモノサシは、人それぞれだと思いますが、では、自分は、どんなモノサシを持っているのでしょう?
あれ、自分の? モノサシ? そんなの持ってる?
どうでしょう?「自分を知るためのコース」では、まず、見たり、聞いたりした、その時、その時、自分のなかに何が起きているのか、自分の内面を観察することから、始まります。
11月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想を紹介します。




その都度その都度、どのように見て、聞いて、反応しているのかを観察した時に、すべて自分の中に起きていることに驚いた。相手がそう思っている言っているとか、そうに違いないなど…自分の頭の中にある“超高速決めつけマシーン”が作動してアウトプットしている。笑えるなぁ〜
普段、なかなかひとりで自分を見ることは出来ないが、今回参加した仲間の話を聞くとこによって、たくさんの気づきがあり良かった。
自分を知るためには、
・自分に向き合って見る
・いろんな事柄の紐を解いていく
簡単に行かないとは思うが、探求して見ようと思った。そしたら、自分が背負っているもの剥がれ、自分自身が自由になって行く道筋が出来、自分のやりたいことが見えていくように思える。
『実際の自分』とは何か? それは、心の奥底に秘めているように思えた。
まずは、知らない(自分自身)ことから始めよう!!
やってみよう!!(40代男性)
 
日常では見たこと、聞いたことなど、そのままの反応が事実・実際ときめつけている。
どれだけ、きめつけの多いことか。
いつまでたっても、事実・実際の正体がつかめないもどかしさ、
答えがすぐ欲しいと思っている自分。
答えがないと安心できない自分。
だから、そのままの反応を事実としてしまう。
そんな中で興味深かったのは、
失敗したときは、それがきめつけているからだとわかるけど、うまくいっていると、きめつけていることすら気が付かついていないという発見。
それから、普通なら人は年を重ねていくと、経験・知識が増えた分、思慮深い、寛大な人間になっていくはずなのに、なぜか頑固な年寄りになってしまうことの方が多い。
その分かれ道はどうしてなのか。
もちろん、経験や知識が増えることはとても大切なことだけど、それが「きめつけ」となっていく分だけ、人はか頑なになっていくんだなと。
自分を知るためには、インプットした<事実・実際>を自分のBB(ブラックボックス)(知識や経験などのデータベース)で変換して、アウトプットされた反応を<事実・実際>としないで、自分の認識として自覚しているのか、また、それを単に知識としてじゃなくて、ちゃんとそれを日常で使えるようになっていくのかが大切なんだと思う。
てなことを考え続けた、一週間だったなぁ〜(50代 女性)

Posted by : school-office | - | 17:24 | comments(0) | -
どの人も自由にしたら社会はどうなる?

「社会」と聞いたら、どんなイメージが湧きますか?
「私と社会の関係は?」と、問うと、どうでしょう?
「社会」というと、自分の外に目が向いて、「そこはどうなっているのだろう?」と、自分とは、別の対象をイメージすることが多いかもしれませんが、先ず「自分というものをどんなふうに捉えているんだろう?」と、自分の内で起きていることを観察することから始めてみると、私の社会観が、見えてきます。そして・・・
そのプロセスから、「社会」を調べ、創造すると、今まで、知らなかった社会の姿が現れてくるかもしれません。
今回は、9/27〜開催した「社会を知るためのコース」に参加した人の感想レポートを紹介します。
 

「どの人も自由にしたら社会はどうなるだろう?」の問いかけに、どの人も自由になったら活動的に、活き活きする、楽しそう、など、イメージが出てくる。
もしこの問いが、10年くらい前だったら、自由?それは良いけど、そんなことしたら、仕事をやりたくない人が出てきたらどうなるの?
社会は機能していかないんじゃないかという不安で、理想だけど、無理とあきらめの考えしか浮かんでこなかったと思う。
今は、メチャクチャにはならないだろうというイメージは湧いてくるけれど、本当に私の中はどうなっているのかから、コースは始まった。
具体的に一つ一つ検らべていく中で、自分の日常生活では、しっかりとしなければいけないこと、やって当然と<やることがある>となっている心の状態が見えてきた。
そこから、私が自分自身へ、他の人へ、強いている姿がいっぱい出てきた。
<責める>
責めて当然、責められる側が悪いとなっている。どうして、悪い?やることをやっていない=義務を怠っている=義務(やらねばならないこと)をしなければ責められて当然。責める権利がある。こういう論理で、当然として人を責める。
<約束等>
まわりの人を責めて、気分が良い人がいるだろうか?でも、やめられない。道徳観を持って来て、自分を諫めようとするけど、スッキリしない。
自分の中に<やること><やらなければいけないこと>がある、という観念から解放されなければ、責めることから解放されない。
<やること>は、どこにあるのか?それは頭の中で、実際ではないと口では言うけど、この<やること>がある、という頑固な観念が自他を支配している。
<権利、義務>
<やらなければならないこと>が、自分の中で、少しでもあれば、権利、義務が生じる。権利、義務が生じれば、上下、主従の関係が出てくる。
権利があるとなると、その物を自由にできる。人も自由にできる。強制することができる。自分の中で、まわりの人を所有して、強制して、力でやらせようとしている実態に全く気付いていない。権利を主張すれば、必ず義務も生まれ、自分にも役割を強いる。お互いに強いる関係でどこまでいっても自由にはなり得ない。

今回いろいろ検討してきて、自分も人も何もしなくてよい。社会も何もしなくてよい。というベースが、自分のなかにないと、何をやっても、縛り、強制し、力関係でやろうとする。いくら人の内面(心)が大切だと頭でわかっていても、重視できないのは、この辺に鍵があるのかな?会話をしていても、「〜やりたい。」「〜やりたくない。」と聞くと、やりたい、やりたくないことが、その人の心としている。行動=心として、心を尊重することは、行動をやってもらうことと、どこまでいっても、そこから離れない。
内面とは、その人の言葉、行動に表れる欲求が出てくる前の、内、底にあるもの。そこを尊重しているのか?聞いた内容をやったら尊重しているという錯覚から、人と会話をしていても、やるべきか、やらないのが良いかと、生身の人と接していても、自分の頭の中と会話している。やるがどこまでいっても離れないので、自分の許容範囲の中ではホッとして、それを越えたら困ったり、拒否しようとしている。
まず、その人の心に、応えていこうとする。そういう心と心のやりとりでこそ、初めて、検討できるのではないか。
自他の心を受けとめないから、外の考え、あり方などを持ってきて、自他を裁き、動かそうとしている。


今の仕事は、私の、自分の内なる欲求で動いているように思う。
それぞれの人が、自分に向き合い自分の中にあるもので、生きていってほしい。特に若い人達をみていてそう思う。
でも、いくら、私の内面から出てくる純粋な願いであったとしても、実際の運営を外のもの(権利、義務などの考え方、他)でやろうとしたら、心のない形だけの行為、不純なものになってしまう。このあたりのことを、職場で、もっと検討していきたい。

社会を知るためのコースを通して、内面を重視しようとしてもできないあたりがどの辺か、少し解明できた。
個人のテーマとして、何とかしようとしても、それだけではできない、社会のテーマでもある。
個人のテーマ=社会のテーマで、個と社会が協力し合って、人として、幸福な暮らしが営まれると思う。
コミュニティが、人が増えても、個人の小さな意見を尊重し、検討し、多いに要求し合い、心豊かな社会が造れる道筋が、まだ、私の理解では浅いと思うが、見えてきたように思う。
(50代女性)

Posted by : school-office | - | 15:01 | comments(0) | -
その解明に臨む〜争いのない世界へ
コースに参加すれば、必ず何か、新しい発見があるわけでもないです。
でも、こんなものと、諦めるでもなく、変わらなくてはと、頑張るわけでもなく、ただ、自分をもっと、知りたいとの、知的欲求は、いくつになってもあるのではないでしょうか?
10月の「人を聴くためのコース」の感想レポートを紹介します。

自分の聞くはどうなっているのか?
長い間、聞けない人、話し合えない人のレッテルを自分自身に貼り、疎外感の中で 生きてきた。
「どうして話合うことができないんだろう?」と、いつも奥底にあったように思う。 
今回、その解明に臨んでみる。 
話し下手で、意思をうまく伝えられないもどかしさ。人の気持ちも受け止めきれない、どうなってんだろう?

聞いて反応が起きたことを見て、自分の中を良く見てみる。 
自分が聞いたことは、相手が言ったことと、それで通り過ぎている。
その辺から、「確かに聞いたから間違いない」「いや言ってない」とすれ違っていく。 
聞いて、<言われた>と、捉える。そこから、暗くなったり明るくなったり・・。
そこが見えてきて、大分軽くなっている自分に気付く。

「意思を伝えたい」「わかってほしい」という、通じ合いたい、は誰でもの願いではないだろうか。その手段として言葉がある。 
言葉は心のあらわれ。
言葉がその人そのもののように勘違いしてるのではないだろうか。  
だって自分を良く見たら、最近は勘違いだったり、あえて反対のことを言ってみたり、いい加減もはなはだしい。
でも相手の言葉は真に受けて、「そう言ったじゃないか。 この耳で聞いたから間違いない。」としてみたり。
どうも相手そっちのけで自分のことばかり。 
その人が話してるときでも「途中からそうじゃなくって〜」と言いたくなる。
まだチャンと聞いてないのに、どうして「そうじゃなくって」が出てくるか。 
不思議にも感じないまま、「えっ、 どこがおかしいの?」 
「で、その人なんて言ったの?」
「ええっ、聞いてなかった!」  
自分の言いたいことをひたすら言い合う世界からは、不愉快になったり、<言われた>とガーンと暗くなる。
その人と自分が分かれていない。 
言ったのは→その人。
聞いたのは→自分。
ここがはっきりすると、その人はその人の言いたいことを言っただけ。
勝手にいろいろくっつけて、「言われた〜」と、なるのは自分の「あ〜た〜ま」の中のこと。
これじゃあ 聞くが実現しないわけだ〜
「あの人、あんなこと言ってたけど、何を言いたかったのかな〜」
自分と違うその人が見えてくる。
その人にはその人の世界がある。 
その世界は自分にはない世界、その人の人生そのもの。
でも聞きあえたら解けてくるものがある。暖かい気風がみなぎってきそう。
その人の世界は、わからなくても 理解しあえるかな。

争いや対立をどうやったら なくせるだろうと心砕くより、お互いの心を聴きあうことで自然に溶け合っていくのかな。 
”人を聴く”なんて、タダだし、お金もかからないし、争う必要ないし・・・
(60代男性)
Posted by : school-office | - | 18:38 | comments(0) | -
見過ごしていた大切なもの

内観コースでは、静かに、自分で、「母に対する自分」「父に対する自分」「誰々に対する自分」と、物心ついたときから、年代順に思い出していきます。
初めは、そんなに思い出せないものですが、内観の3つの視点(お世話になったこと・して返したこと ・迷惑をかけたこと)で、振り返ってみると、その時の場面や風景が、浮かび上がってきて、その時の自分の気持ちや、その時はわからなかった自分の心や自分の身近な人の心も見えてくるようです。
「こんな嫌なことがあった。」「こんな自分だった。」と固く持っていたものが、「あの時、自分は、嫌な気持ちだったんだなあ。ほんとうは、どうしたかったのかなあ」「相手はどうだったんだろう?」と、解けていくようです。


9月の内観コースに参加した方のレポートです。

母からはじめて、父、それから嘘とごまかし(盗)祖母 2回目の母と父、周囲の方に対する自分を年代順に調べました。同じ年代でも、対象によって全く様相、基調が異なること、そして、順番もテーマも響きあって2回目に出てくることばや感情も違うことがすごく不思議でした。こんなに豊かで、でも、感じきれていないことや置き去りにしてきたこと、忘れていることがいっぱいあるし、これからも自分の見方や経験や人から受ける影響で、どんな風にも変わりえると感じました。固定していることはないということを、自分の過去に対する思い込みについても実感したような気がしています。
私はかなり観るのがつらいことが多かったのですが、苦しさを感じた分だけ、見過ごしていた大切なものを取り戻したというか、見つけることができた気がします。
(30代 女性)

探究の旅は決して平たんではなかった。まずは母に対して年代を区切って世話になったこと、して返したこと、迷惑をかけたことを思い出す。最初は「特にないなぁ…」と思っていたものの、何度も何度もその時代に足を運んでみると、ゆっくりとよみがえる過去の記憶。朝、スズメのさえずりと共に母の「おはよーおはよー」という調子はずれの歌が聞こえる。食卓に行くと並んでいる朝ごはん。髪の毛を整えてもらって「行ってきます」「行ってらっしゃい」。高校のころになると家を出るのはまだ薄暗い時間なのにお弁当はちゃんと出来上がってた。
当たり前と思っていたその光景。好きなことをやりたいもん。とわがままばかり言っていた私。「こういう娘になってほしい。幸せになってほしい」と母の強い願いの意味を深く考えず、疑問に思うことを質問したり納得するまで議論することもせず、ましてや自分の意見を伝えることもなく、その場をしのぐために形だけ「はい」と言ってやったりやらなかったり。
(略)
このような私を懸命に育ててくれた父母、いつも温かく見守ってくれている兄。共に生きようとしてくれた元夫、そして会社の上司や同僚たち、かわらず仲良くしてくれる友達。すべての人にこれまでの私とのかかわりにお詫びをし、感謝をし、今もかかわる人たちにはこれからも共にやらせてくださいと心の中でお願いをした。
内観という、これまでの自分を知る旅は、今の自分を知る旅でもあり、これからの自分の生き方を知るための旅だった。
自分の旅は今はじまったばかりだ。
(40代 女性)

Posted by : school-office | - | 13:19 | comments(0) | -
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